大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所 昭和62年(ワ)1000号 判決

原告 伊藤勇

右訴訟代理人弁護士 堤浩一郎

同 川又昭

同 森卓爾

同 山内忠吉

同 畑山譲

同 稲生義隆

同 根岸義道

同 岩橋宣隆

同 小口千恵子

同 山田泰

同 影山秀人

同 中村宏

同 星山輝雄

同 伊藤幹雄

同 林良二

同 輿石英雄

同 野村正勝

被告 三菱電機株式会社

右代表者代表取締役 志岐守哉

右訴訟代理人弁護士 瀧川誠男

同 松崎正躬

主文

一  原告が被告に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることを確認する。

二  被告は、原告に対し、六一三一万三五三〇円及びうち別紙遅延損害金一覧表内金欄記載の各金員に対する同表起算日欄記載の日から各支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。

三  被告は、原告に対し、平成二年一〇月から被告が原告を復職させるまで毎月二五日限り三三万〇三六〇円を支払え。

四  訴訟費用は被告の負担とする。

五  この判決の第三項は仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

原告は、主文一ないし四項同旨の判決及び二、三項につき仮執行の宣言を求め、被告は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二原告の主張

一  当事者

被告は、各種電気機械器具等の製造販売等を目的とする会社である。

原告は、昭和三九年三月に工業高等学校を卒業して同年四月一日に被告に雇われ、被告の鎌倉製作所(以下「鎌電」という。)に技手見習として配属された。一年間の見習期間を経て技手となり、計算機技術部応用機技術課、電波技術部第二技術課等に勤務した後、昭和四三年七月一六日から三菱電機労働組合(以下「組合」という。)鎌倉支部(以下「支部」という。)の専従となった。昭和四七年八月一六日組合専従を終えて電波製造部技術第二課に復帰し、同年一〇月一六日の職制改正により、同部技術第四課(以下「技術第四課」という。)の所属となった。

二  転任命令の拒否と解雇

被告は、原告に対し、昭和四八年一月九日、技術第四課長松山宏を通じて、同月一六日付で仙台営業所へ転任させる旨の内示をし、同月一六日、内示のとおり転任を命ずるとともに、同月二九日までに赴任するよう命じた(以下「本件転任命令」という。)。しかし、原告は、内示直後に転任には応じられない旨を松山課長に伝え、その後も被告側の再三の説得にかかわらず右転任命令に応じなかったところ、被告は、同月二九日、原告に対し、原告の転任拒否は正当の理由なしに上長の命に服さないときは懲戒処分に処する旨を定める就業規則七九条九号及び懲戒解雇の基準に該当するときは解雇する旨を定める同規則六三条一四号に該当するとして、解雇の意思表示をした(以下「本件解雇」という。)。

三  解雇の無効

しかしながら、本件転任命令は、次に述べるとおり、原告の正当な組合活動を嫌悪してなされたものであるから、不当労働行為として無効であり、したがって、原告がこれを拒否したことを理由とする本件解雇も無効である。

《以下事実省略》

理由

一  原告の主張一(当事者)、同二(転任拒否と解雇)の各事実は当事者間に争いがない。

二  解雇の効力について

1  転任の必要性及び人選の合理性

《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

(1)  被告は、昭和三三年以来事業部制をとっており、本件解雇当時は電子事業部を含む一〇の事業部の下に一九の製作所と二二の営業所を置いていた。

電子事業部は、製作所として鎌電のほかに兵庫県尼崎市の通信機製作所を管轄し、更に、仙台営業所を含む全国の営業所の電子部門の業務を管轄していた。

当時、鎌電には、事務系部門として総務部、経理部、営業部があり、製造関係の部としては、飛しょう体製造部、電波製造部、マイクロ波製造部、数値制御製造部、製造部管理部、品質保証部等があり、その従業員の総数は二千数百名に及んでいた。

飛しょう体製造部は宇宙関係及び防衛庁関係の部門、マイクロ波製造部は当時の電信電話公社向けのアンテナ導波管関係の部門、数値制御製造部はロボット関係の部門、電波製造部は電波応用機品、超音波測定器、RSM、公害関係の測定機器等の部門であった。鎌電では半導体、ITVは製造していなかった。

電波製造部は部員が約二三〇名で、七課によって構成されていた。技術担当の四課のうち、技術第一課と技術第二課は防衛庁関係の電波応用機器を担当し、技術第三課は公害関係機器を担当し、技術第四課は超音波探傷器、電磁波のドップラー効果を利用したRSM、ヘリコプターの航行装置などを担当していた。

仙台営業所は、総員約九〇名で、うち電子課には課長、副課長、課長代理、二六歳から三七歳までの男子従業員四名と女子従業員一名の合計八名が配置されていた。同課は、電子事業部の指揮下にあって主として電子事業部及び半導体事業部の製品である無線機器、テレメーター、放送用機器、タクシー無線機器等の通信機器、ITV、レントゲン用テレビ、RSM、ライナック等の電子応用機器、電子計算機、半導体の東北六県における販売を担当していた。その受注実績は、昭和四五年が三億三四〇〇万円、昭和四六年が三億二六〇〇万円、昭和四七年が五億四四〇〇万円、昭和四八年が六億八三〇〇万円であり、そのうち、半導体は昭和四五年以降順次四〇〇万円、三四〇〇万円、一億四八〇〇万円、一億七三〇〇万円、電子計算機は一億二二〇〇万円、二四〇〇万円、一億六五〇〇万円、一億八四〇〇万円、通信機器及び電子応用機器の合計額は、二億〇八〇〇万円、二億六八〇〇万円、二億三一〇〇万円、三億二六〇〇万円であった。

電子応用機器に含まれるRSMの受注件数は、昭和四五年はなく、昭和四六年以降、六台、一一台、一四台と推移し、受注金額は、昭和四八年で年間約三〇〇〇万円位になっており、同年一月当時の東北地方におけるRSMの市場占有率は七〇ないし八〇パーセントに達していた。

なお、いずれも昭和四八年分には本件転任命令後のものも含まれるが、同命令当時においてもその程度は見込まれていた。

(2)  被告は、従業員を職務遂行能力により、定型的職務遂行能力を持つ者のグループ、応用的職務遂行能力を持つ者のグループ、創造的職務遂行能力を持つ者のグループに三区分し、定型的職務遂行能力を持つ者のグループに技能系統、工技系統、執務系統を、応用的職務遂行能力を持つ者のグループに作業技術系統、技術系統、事務系統を、創造的職務遂行能力を持つ者のグループに技術企画系統、事務企画系統を配置するものとし、執務系統、工技系統、技能系統については一級から五級まで、事務系統、技能系統、作業技術系統については一級から三級までの資格区分を設けていた。

高校卒業の資格で被告に就職した者は一年間の教育期間終了後に定型的職務遂行能力を持つ者のグループに格付けし、大学卒業の者は教育期間経過後に応用的職務遂行能力を持つ者のグループに格付けしていた。工技系統は、技術的基礎知識と経験的知識の上に立って、あらかじめ定められ、準備された基準に従い直接行われる技術的職務を遂行する者、事務系統は、社会科学の概論的知識及び実務経験的知識の上に立ってあらかじめ定められた大綱に準拠し、一定の自主的裁量のもとに応用的処理を要する一般的事務職務あるいはそれに関連する判定的、指導的職務を遂行する者、技術系統は、自然科学の概論的知識及び実務経験的知識の上に立ってあらかじめ定められた大綱に準拠し、一定の自主的裁量のもとに応用的処理を要する一般的技術職務あるいはそれに関連する判定的、指導的職務を遂行する者とされていた。

工技二、三級は概ね工業高校を卒業して入社し、数年を経た者が、事務・技術一級は概ね大学を卒業して入社し、間もない者がこれに該当した。ただし、工技三級の者は試験に合格すると技術一級に昇格できるとされていた。

電波製造部だけで工技二、三級の者はおよそ五〇名、技術一級の者はおよそ三五名が配属されていた。

また、鎌電全部では、半導体に関する技術を有する者は約一三〇〇名に及んでいた。

(3)  被告は、昭和四八年の第一〇一期決算期を迎えるに当たって、経営基盤を強化するため「一〇一作戦」と銘打ったキャンペーンを実施した。

その一環として、電子事業部は、特に営業部門の強化を重点施策とし、昭和四七年一〇月各営業所に対し、受注活動を推進するために該当部門の人員構成を見直すよう指示した。

(4)  仙台営業所の電子課は、その受注高が逐年伸びており、潜在需要も相当大きいとみられていたが、人員数の面でも、営業員の技術的能力の面でもこれに十分対応できる態勢になっていなかった。このため、同営業所は、直ちに電子事業部に対し、電子計算機関係、半導体関係、民生用電子機器関係各一名、合計三名を増員するよう要請した。

この要請を受けた電子事業部は、総合年度計画立案に当たって発せられた社長指示及び電子事業部全体の人員枠を増やさないという電子事業部長の方針に従い、同年一二月、電子計算機関係と民生用電子機器関係各一名、合計二名の増員に止め、民生用電子機器関係の者に半導体関係も併せて担当させることとし、二名は鎌電から割愛する旨を指示した。

(5)  右指示を受けて、仙台営業所は同月一五日付で鎌電に対し、とりあえず、電子機器販売要員(半導体、ITVその他スピードメーター等)一名の割愛を要請した。その要請の内容は、工技二、三級または事務、技術一級の東北地方出身者が望ましく、異動時期は昭和四八年一月一六日付を希望するというものであった。

(6)  仙台営業所から割愛要請を受けた鎌電の吉田所長は黒川副所長と協議し、昭和四七年一二月末ころ、電波製造部から割愛することを決め、電波製造部の平岡部長に人選を指示し、同部長は技術第四課の松山課長に同課員の中から人選をするよう指示した。

技術第四課は松山課長以下一二名で構成され、そのうち技術者は一〇名で、超音波探傷器を担当するグループとドップラー機器を担当するグループに別れていた。超音波探傷器を担当するグループは、河野、大力の両主任、佐藤(技術二級)、丸田(技術一級)と田中(工技研修生)で、ドップラー機器を担当していたグループは、吉田、新貝の両主任、迎里(技術二級)、原告(工技二級)と内藤(工技一級)であったが、仙台営業所の要請に副う条件を有していたのは原告だけであった。もっとも、原告は、昭和四三年七月に組合の専従となる前は防衛庁の対潜哨戒機に使用される磁気測定機器等の開発の業務に従事しており、RSMの業務に従事したのは昭和四七年八月に組合専従を終わった後の四か月程度で、特にRSM関係の業務に長けているというものではなかった。

(7)  松山課長は、平岡部長から人選を命じられたが、技術第四課は課員数が少なく、人員を割愛できるような状況でなかったので、その旨を同部長に申し出た。しかし、同部長からその申出を拒絶されたので、割愛対象者に原告を選び、昭和四八年一月六日、同部長にその旨を報告し、同部長はその旨を吉田所長に報告した。

(8)  吉田所長は、同月八日、平岡部長を介して松山課長に対し、原告へ仙台営業所への転任を内示するよう指示し、同課長は、同月九日午前、原告に対し、転任を内示したが、原告は、「仙台営業所に行く意思は全くない。組合専従員としての四年間のブランクを取り返しているところである。妻も働いているし鎌倉に住もうと考えている。この配転は組合活動と無関係とは考えられない。」などと言って転任を拒否した。松山課長は、平岡部長と人事課長に原告の意向を伝えたが、その配転計画が撤回される見込みがなかったので、同日午後、原告にその旨を伝えた。更に、翌一〇日にも「人事課をはじめ上級管理職からかなり強い別な目で見られているから鎌電にいるよりも仙台営業所に出たほうが良いのではないか。」などと言って説得を試みたが、原告の意思は変わらないことが判り、内示を白紙撤回できるか否か部長と相談してみたいということでその日は説得を終えた。そして、平岡部長と人事課長に原告の意思は変わらない旨を伝えたが、再度原告を説得するよう指示されただけで、内示が撤回されることはなかった。

(9)  被告と組合との間には、労働協約の転任条項に関して「会社は組合員を転任または出向させるときは原則としてあらかじめ本人の意向を聴取し、参考とする。」との了解事項があり、そのうえ、昭和四四年八月二七日の労使協議により「会社は転勤転任等に際しては、本人の適性等の把握にこのうえとも慎重なる配慮をすることを約束する。」との覚書が交わされていた。

また、被告は、技術一級以上の従業員については自己申告制度をとっており、自己申告書には異動の希望についても記載する欄を設けて、その欄に、具体的な希望職種、希望場所、理由、時期を記載することができるようにし、自己申告制度が適用されない従業員については上長が部下の転任希望を把握することとしていた。黒川副所長も、昭和四七年九月二七日に開かれた場所協議会において「いままでもローテーションを行う際には、本人の意思を抜きにしたかたちでは実施していない。」「従業員の意思を聞く方法は、自己申告制度の拡充を図る等して検討してみたい。」と述べて、転任を命ずる際には本人の意思を考慮することを明らかにしていた。実際にも、鎌電から仙台営業所へ転任した従業員は、昭和四一年五月の小野寺宏行、昭和四八年四月の佐々木幹夫、昭和四九年二月の津野真一、同年四月の清野正子、昭和五三年七月の八幡秀夫のいずれも本人の希望に副うものであった。

ところが、原告に対しては、突然確定的なものとして内示されており、それまでに原告が転任に関する希望を聞かれたことはなかった。

2  原告の組合活動に対する被告の対応

《証拠省略》

(1) 原告の組合活動歴

原告は、昭和三九年一〇月、組合に加入した。昭和四一年四月、後に組合活動を共にするようになった小山幸夫、加藤幹夫らとともに鎌電の高卒同期入所者の同期会「五輪会」を結成し、同年一一月には支部の青対委員になった。次いで、昭和四三年七月の支部役員選挙で組合専従の執行委員になり、青対部長と福祉対策部長を兼任して、活発に活動した。当時鎌電には毎年二〇〇名から三〇〇名の新規採用従業員が配置され、青対部には支部組合員の五割を占める従業員が属していたが、原告が青対部長に就任してから青年層の組合活動が活発化した。

昭和四四年五月、原告を含む「五輪会」、青対委員、サークルの活動家等が中心となり、労使協調路線をとる当時の支部執行部を批判し、支部執行部を資本から独立したものに変えて行くことを目的として、「生活実態研究会」を結成した。

同年六月に行われた組合の定期大会の代議員選挙に原告は同研究会の仲間四名とともに立候補した。そして、春・秋闘の妥結を決めるのに支部組合員が直接参加することができるよう組合の規約を改正することや、軍需産業に携わっている鎌電の従業員の悩みを全国の代議員に伝えることを訴えて最高位で当選した。このとき同研究会の会員からは原告を含む二名が当選したが、当時の支部執行部の三橋執行委員長は最下位で当選し、書記長は落選した。

原告は、組合の定期大会において、右規約の改正を提案し、更に、軍需生産に携わっていることについて批判的な発言をした。

同年七月に行われた支部委員選挙の結果、「生活実態研究会」の会員やそれに同調する者が支部委員の三分の一位を占めるようになった。

同研究会の会員とその周辺の者は、同年八月に発生した鎌電の計算機技術課所属の加藤幹雄に対する配置転換問題、昭和四五年三月に発生した独身寮勤務者の減員問題などを通して、当時の支部執行部に対する批判活動を強め、次第に鎌電における影響力を大きくして、ついに、同年七月に行われた支部役員及び中央委員選挙において、同研究会及びその周辺の者が、支部三役(執行委員長、執行副委員長、書記長)をはじめ支部執行委員三名、中央委員三名のすべてを独占し、原告は支部書記長に、原告とともに活動してきた小山幸夫が支部執行委員長に就任した。

原告らの得票数は対立候補の二倍に達していた。

小山執行部は、従来の執行部の方針を大幅に変え、かつ、積極的に新方針を実施しようとした。具体的には、青対委員会に、文学グループ、婦人問題研究会、歌ごえグループ、軍需産業研究会、レクグループなどを作り、支部執行委員会に、職階制度、給与、経営対策、労働問題専門委員会を設けるなどして活動の充実を図った。更に、組合員の意識の向上と組合活動への積極的参加を図るため、支部委員による職場新聞の発行、被告と支部の交渉の場への一般組合員の参加、春闘、秋闘等での組合員に対するアンケート調査、各職場単位での労使協議の場としての各部協議会の設置、支部機関紙の日刊化、専従執行委員の職場訪問などを行うとともに、図庫の移転拡張、メッキ工場のシャワーの設置、非組合員である準社員、パートタイマーの賃上げ等の課題に取り組んだ。

小山執行部を誕生させ、これを支えた原告らのグループは、従来の支部執行部を労使協調路線と批判し、こうした支部の状況を打破して、組合を階級的民主的に強化するという立場を明確にしたもので、日本共産党、民主青年同盟の路線に極めて近いものであった。また、当時鎌電が兵器の生産に携わっていたため、その点についても批判的な発言をすることが多かった。

(2) 小山執行部誕生のころの被告の鎌電における労務体制

こうした状況の中で、昭和四六年二月羽成正臣が勤労課長に、同年八月に黒川義男が副所長兼総務部長に、同年一〇月斎藤達二が勤労課主任に就任して鎌電の陣容が改められた。

被告は、羽成勤労課長の着任直後から「労政時報」を発行し、更に、同年四月から「勤労ニュース」(同年六月二日付の第七号から「鎌電ニュース」に名称を変更した。)を発行した。「労政時報」は鎌電の人事課長が管理職向けに発行するもので、労務管理に関する記事を中心にしたものであるが、その中には、小山執行部側のインフォーマルグループの発行したビラについて、「日共、民青系の宣伝活動ではないか」などとして、ビラ配布に関与した従業員の名を上げて管理職に警戒を呼び掛けるなど、共産党系の組合員に対する警戒と嫌悪感を示すものもあった。このような管理職向けの労務管理に関する情報紙は当時被告の他の事業所には存在しなかった。「鎌電ニュース」は人事課企画グループが鎌電の全従業員を対象として発行するもので、その内容は労使間の問題、福祉、安全の問題等多岐にわたったが、労使間で懸案となった問題についての被告側の立場を従業員に説明したり、従業員に対して企業人としての教育を施したりするものもしばしばみられた。

同年三月には、鎌電勤労課が管理職研修用のハンドブックを作成し、宿泊研修を中心とした研修体制を整備した。

被告は、昭和四五年九月から昭和四六年一月にかけて、毎月、監督者でかつ組合員である班長を八名づつ集めて二日間の研修を実施した。そして、この研修を終えた班長たちは、その後も集まってグループ討議を継続、発展させていったが、日常的な業務の検討にとどまらず、職場における民青同盟員とその活動に対する対策も重点的に取り上げて討議した。同年四月二四日、鎌電の課長と主任を対象とした労務研修会を実施し、その中で、鎌電内の左翼思想の拡大を防止する方策、鎌電従業員内の無関心層掌握の方策の一つである個別指導の方法、無関心層及び体制的影響を受け易い若年層に対する説得方法と説得について注意すべき事項、反体制状態を好転させた他社の実例及び具体的戦術などをテーマとして取り上げた。

被告は、昭和四六年から産業人セミナーに組合員を派遣するようにしたが、同セミナーにおいては、原告ら小山執行部とは対立する組合活動像の教育や職場における左翼対策といったことが研修の重点の一つになっていた。

(3) 小山執行部と被告の対立

黒川副所長は、昭和四六年一〇月、原告と小山執行委員長が、危険作業に従事する組合員の実態を調査するとの理由で、群馬県の陸上自衛隊基地内にある吉井製作所の訪問を申し出たのに対し、これを拒絶した。

被告は、同月二一日には、支部が国際反戦デーの集会案内に構内放送を利用したいと申し出たのに対し、これを拒否し、同日付の「鎌電ニュース」で当時支部との間で交渉中であった組合事務所の移転拡張計画を一方的に発表し、同月二九日には、支部が会議室の使用を申し出たのに対し、使用目的等を明らかにしない申出であるとして、空室があるにもかかわらず、これを拒否した。

同じころ、原告らが各部協議会と称しているものは労働協約上の協議会として認められないものであるから、原告らがこれに協議会として性格を持たせるというのであればその開催を拒否すると言い出した。

これに対し、支部側は、構内放送の利用の拒否は、従来の労使慣行に反する措置であり、支組合事務所の移転拡張計画については、然るべき時期が来るまで発表しないとの約束を破ったものであり、各部協議会は、昭和四五年九月の場所協議会で設置が合意されたもので、これを拒否するのはその合意に反するものであると主張して、両者はその都度厳しく対立し、激しい応酬を繰り返した。

被告と支部は、時間外勤務についての三六協定を一か月単位で締結してきたが、昭和四六年一二月一三日から行われていた同月一六日から向こう一か月間についての協定の交渉中、被告は、支部との勤務時間内の交渉は原則として専従者が行うべきで、非専従者の交渉参加は認められないと主張し出し、非専従の組合員も参加できると主張する原告ら小山執行部と対立してそれ以上交渉が進まなかった。このため、被告は、同月一六日午後四時、時間外勤務についての交渉が成立しないとして、従業員に対し一斉定時退場を命じたが、従来、時間外手当は従業員の生活上必要なものになっていたので、一斉定時退場は、従業員の間に不安と執行部不信をもたらすことになった。

被告は、昭和四七年二月二九日の臨時場所協議会の席で、時間外勤務についての三六協定を、従来の部毎一か月毎から、場所(製作所)毎六か月毎の協定に変更したいと提案した。支部が右提案を拒否したため話合いは平行線をたどったが、被告は、「鎌電ニュース」に「小山執行部がいたずらに当局の提案を拒否している。」「小山執行部は被告と従業員の離反を意図している。」「これにより不利益を受けるのは従業員である。」などという記事を掲載して、支部執行部の頭越しに組合員に対し直接訴えたりした。

(4) 反小山執行部のインフォーマルグループの成立及びその活動

小山執行部誕生直後の昭和四五年九月、役員選挙で落選した候補者を中心として「正しい労組を育成する会」が結成された。この会は、日本共産党から組合を取り戻そうといった内容のビラを配布して宣伝活動を行った。

昭和四六年一二月ころ、前記班長研修会の参加者によるグループ討議の延長として、同参加者を中心とし、中高下正秀を会長とする「班長会」が結成された。

被告としては現場の職制である班長がグループを作って研修等の活動をすることは好ましいことと考え、これを育成する方針をとり、「班長会」の事務局を鎌電の研修課内に置かせ、「班長会」の研修に被告の管理職を講師として参加させるなどしてその活動を積極的に援助した。

「班長会」は、昭和四七年一月二六日から班長会会報を発行し、研修会等を開催するなど積極的な活動を行っていたが、そのころ鎌倉市内の中華料理店で開かれた班長等の集まりにおいて、黒川副所長は、班長らに対し、「班長がだらしないから現在の執行部ができた。」などと言って、小山執行部の原告を名指しで非難し、組合の方向づけについて意見を述べた。

同年はじめころ、「班長会」を母体として、同年夏に予定された組合の役員選挙のためのインフォーマルグループの「正労会」が結成された。また、同様の目的で、同年五月ころには主任を中心とする「C―四〇会」が結成された。

同年六月には、「正しい労組を育成する会」、「正労会」、「C―四〇会」のメンバーらが結集し、小山執行部に代わる石原康則を執行委員長とする執行部を作ることを目的として「民主化連合」を結成した。

(5) 昭和四七年八月の組合役員選挙

同月三日に中央委員、支部役員選挙が、同月中旬には、支部委員選挙がそれぞれ行われ、小山執行部側は、支部三役、執行委員、中央委員の全ポストに候補者を立て、これに対し、「民主化連合」側も全ポストに候補者を立てた。

「民主化連合」は、原告らが支部執行部を占めたことは共産党、民青同盟が組合に潜入したということであり、組合は共産党、民青同盟に支配されているからこれを取り戻さなければならないといった趣旨の宣伝をして選挙運動をした。この選挙戦の中、「民主化連合」は同年七月の一斉定時退場日でない日の夕刻に一三〇〇名規模の総決起集会を開いたが、こうしたことは当時の鎌電の勤務状況では被告の了解と援助がなければできないことであった。

また、鎌電の課長、主任ら監督者は票読みにつながる組合員の意識調査をし、更に、部下に対し「民主化連合」に対する投票を指示するなどした。

選挙結果は「民主化連合」の候補者が約一七〇〇票を得て全員当選し、小山執行部は敗退した。小山執行部側の得票は六〇〇票ないし七〇〇票で、小山執行部が誕生したときの得票の約半分であった。

原告は支部委員に立候補したが、やはり落選した。

役員選挙後、被告は、鎌電の所報である「時報かまくら」の従業員からの投稿欄に、原告主張のとおり、比喩的な表現を用いて新執行部が望ましい執行部で、旧執行部の再来を許してはならないとの趣旨の記事を載せ、原告ら小山執行部派の組合員を孤立させるための宣伝に利用していた。

3  右認定の事実によれば、仙台営業所電子課は、昭和四七年末ころ半導体を中心として販売実績が飛躍的に伸び、潜在的需要も大きく見込まれる一方、営業に当たる人員が明らかに不足していたため、営業員、特に技術的知識のある営業員の補充をする必要があり、電子事業部としても当時営業部門の強化を重点施策としていた関係もあって、仙台営業所電子課に二名の販売要員の補充を認め、人員割愛先を同じ電子事業部が担当する鎌電と尼崎市の通信機製作所のうち距離的に近い鎌電に決めたというのであるから、仙台営業所の鎌電に対する割愛要請それ自体は特に問題とするようなものではない。

しかしながら、仙台営業所電子課の販売実績の上昇は主として半導体の需要の伸びによるものであって、RSMの販売量はそれほど大きくなかった。反面そのシェアーは七〇ないし八〇パーセントと極めて大きく、販売も安定したものであって、他社も拡販を図っている状況があったとはいえ、特に緊急に人員を要するというものではなかった。したがって、割愛要請も「電子機器販売要員(半導体、ITVその他スピードメーター等)」として、半導体、ITV関係を主として掲げていたのである。こうしたことからすると、電子課がより必要としていたのはRSM関係の販売要員ではなく、半導体、ITVの販売要員であったものと思われる。その資格も、工技二、三級に限らず、事務、技術一級をも挙げていることや、半導体もITVの製造していない鎌電に対して半導体、ITVの販売要員の割愛要請をしていることからすれば、せいぜい一般的な技術知識を持つ若手という程度のものであったとみられる。被告から適任と判断された原告でさえ、入社後組合専従になるまでの四年間の仕事は主に防衛庁の対潜哨戒機に使用される磁気測定器等の開発であって、RSMを担当したのは、組合専従を終えてからの僅か四か月でしかない。被告も技術者としての能力は低いが対外的折衝能力を買って人選したと主張しているくらいである。そして、これらのことは、吉田所長、黒川副所長にも当然分かっていたはずであり、また、その程度の技術者であれば、現に担当している仕事が何であれ多数いたことも、先に認定した鎌電の規模、技術者数、特に半導体を扱える技術者の数に照らして容易に推認することができる。ところが、吉田所長と黒川副所長は、所管の人事課を通さず、課員が僅か一二名しかなく、その課長の松山が割愛に応じ難いと上申していた技術第四課に対し、原告しか当てはまらないような条件を示して人選を命じているのであるから、その人選方法は異常であって、意図的なものを感じさせる。

被告のように全国規模で事業所を展開し、多様な製品を製造販売している企業にあっては人員の配置転換の必要は大きいし、また、それが配置転換される者の意向に縛られる筋合のものでないことは勿論であるが、被告は従来再三にわたって転任については本人の希望を配慮すると表明していたのであるから、将来被告の幹部になることが予想されるわけでもなく、いくらでも代替性のあると思われる原告程度の資格・能力の者については、緊急の必要その他特段の事情のある場合ならばともかく、本人の意向をある程度配慮すべきであると思われるし、現に鎌電から仙台営業所へ転任した者はいずれも本人の希望に副うものであったのである。ところが、原告の場合は、本人の意思を全く顧慮しようとせずに内示をし、その後も原告から強く拒絶された松山課長が平岡部長等に白紙撤回を求めたにもかかわらず、転任を強行することに執着していたのであるから、このことも一層人選の不自然さを窺わせるものといえる。

一方、原告は、日本共産党、民主青年同盟の立場に極めて近いグループの中心的なメンバーとして活発な組合運動をし、従来の労使協調路線の支部執行部を転覆させ、小山執行部の書記長として被告とかなり厳しく対立してきた者であり、被告は、このような尖鋭な小山執行部の誕生に危機感を抱き、これを転覆させ、さらにその復活を防ぐため、従来の労務管理の態勢全般の見直しを図るとともに、組合員でかつ監督者である班長層をはじめ一般組合員に対して、小山執行部を覆滅させるための教育活動を強め、同執行部と対立的な立場に立つ組合員の育成を図るなどして、原告を含む小山執行部及びその周辺の者を敵視し、排除しようとしていたことも明らかであるといえる。

こうした本件転任命令の人選の異常性と被告の原告や小山執行部に対する対応とを総合すると、本件配転命令は、被告が原告の組合活動を嫌悪し、再度、小山執行部のような執行部が復活するのを防ぐために、仙台営業所から割愛要請を受けたのを機に、同執行部の中心メンバーで役員選挙敗退後もなお組合活動に相当の影響力を有していたとみられる原告を支部から切り離すことを目的として行われたものと認めるのが相当である。

本件転任命令は、原告が正当な組合活動をしたことを原因としてなされた不利益取扱いであるとともに、組合に対する支配介入であって、不当労働行為に当たるものというべきであるから、この転任命令を拒んだことは被告の就業規則に定められた解雇事由に当たらない。したがって、本件解雇は解雇事由を欠き、解雇権を濫用するものであって、無効というべきである。

三  毎月の賃金及び一時金について

1  原告の主張四の1ないし3の事実及び同五の事実中被告における昭和四八年以降平成二年までの中元手当、年末手当の平均支給率、支給日については当事者間に争いがない。

本件解雇がなければ支給されていたであろう原告の賃金の額は、他に特段の事情の認められない以上、解雇時の賃金を基準にして、他の従業員に対して実施された基準賃金の内訳の改定やベースアップに準じて算定するのが合理的である。中元手当、年末手当の額についても、同様に特段の事情の認められない以上、他の従業員に支給された一時金の平均支給率によって算定するのが相当である。

こうしたことを前提にした場合の、本件解雇がなければ得たであろう原告の賃金の額が別紙賃金一覧表(一)記載のとおりになり、中元手当、年末手当の額が別紙賃金一覧表(二)のとおりになることは当事者間に争いがない。

2  被告は、右賃金及び中元手当、年末手当中四二六六万六四二四円は仮処分による仮払として支払われたから、その分の請求権は消滅したと主張するが、仮処分による仮払は本案の裁判に斟酌すべきものではないから、被告の右主張は理由がない。

被告は、本訴提起の二年前までの分の賃金、中元手当、年末手当は消滅時効により消滅したと主張する。しかしながら、原告が昭和四八年二月一三日に、原告を債権者、被告を債務者として原告の雇用契約上の地位確認の仮処分の申請をしたこと、同年四月二六日右申請を認容する判決が言い渡されたこと、右判決に対して控訴がなされたが、昭和六二年三月二五日控訴棄却の判決が言い渡されたことはいずれも当事者間に争いがないところ、雇用契約上の地位確認の仮処分申請には、雇用契約に基づく賃金等の支払を催告する趣旨も含まれ、その申請に対する訴訟が係属中はその催告が継続しているものと解されるから、控訴審判決後六か月以内の同年四月一四日に本訴請求がなされたことにより消滅時効は中断されているというべきである。被告の右主張も理由がない。

四  以上によれば、原告の請求はいずれも理由があるというべきであるから、これを認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小林亘 裁判官山本博、同吉村真幸は、いずれも差支えのため署名押印することができない。裁判長裁判官 小林亘)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例